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個(こ)と、公(おおやけ)の発動の仕方。

このコラムは壮大な地続きのストーリーですので、前回のまでの記事を先に読んでいただくと流れがわかりますので是非どうぞ。

吉井(ロビン)千博の記事


 これまで、経営者の集まり。というものにいくつか所属してきました。世界規模のものから札幌限定のものまで。集まる趣旨も様々あります。

・経営者は孤独だから仲間をつくろう

・みんなで儲けよう

・みんなで勉強しよう

・街に活気を与えよう

・みんなでたくさん寄付しよう

・世界でイイコトしよう

 その趣旨に賛同した方や、紹介でその団体に所属することができるのですが、独立したてのときは、そんな情報は手元にありませんのでおよそ知人からの紹介で知ることになるわけです。しかしながら、これまで私自身が参加してしっくり来るところはありませんでした。

なぜだろう。

 趣旨には賛同できる。学生時代は勉強嫌いだったが今は好きな方である。むしろ熱中すると止められない。人と話すのが嫌いな訳では無い。なのにしっくりこないのはなぜだ??参加していることに苦痛は無いがなにかピンとこないことがある。嫌いな人が会にいるわけでもない。(いる場合は即、退会してますからね)みんなで集まることも苦ではない。そこで真剣に考えてみました。

 何に違和感を感じているのか。その理由を見つけました。

 個(こ)と、公(おおやけ)の発動バランスがおかしいのだ。

 人がなにかのテーマをもとに集まるとき。そこは「公」であると自分は解釈しています。公という字は、「公園」、「公共」、「公式」、「公然」など、誰もが等しくそこに存在するというワード。

しかし。

 経営者と言う人種が集まると、その場が「公(おおやけ)」であることを理解していない人間が出てくるのである。いや本人は理解しているであろう。しかし、アプトプットするときにフォーカスしている部分が違うのだ。社長と呼ばれる人は会社を引っ張るエンジンであるため、性格上やむを得ないのは承知の上。しかし、その立場を引きずって、「公(おおやけ)」である場に趣き、「個(こ)」を持ち込むのである。私はこれにとても憤りを感じるのである。

 「個(こ)」を持ち込むなら、自分の会社や家族だけにしてほしい。

 「個(こ)」ならばまだしも、「我(が)」を出す輩も現れる。

 勘違いも甚だしいではないか。人が集まるとき、そこにはリーダーシップが存在しなくてはならないのは間違いない。リーダーシップは、誰かの「個(こ)」や「我(が)」を満足させるものではない。そんなつまらないことをするためのパーツでもない。あくまで大きなテーマを持って、活動する指針を立てるものだ。

 「公(おおやけ)」でのリーダーシップは、皆が喜びを享受し、多くの人への助けとなる

 導きをするものであろうと自分は捉えている。集まる人が多くなれば、反対意見が出るのも必然。国も同じ。でも、世間が望むものは幸せ。という一つの方向を皆が向いている。

 その手段を選ぶときに、その手法に満足するための「個」ではなく、

 皆が共有する最終目標に「公」の手段で向かうのが理想だと自分は思っている。

 しっくりこない理由はこれですな。